四旬節第5主日A年 (ヨハ11,1-45)

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』」ヨハ11,25-26

イエスはラザロを愛していたので、マルタとマリア、また他の人々は、ラザロが病気になった時に、イエスが来て彼を癒してくださるだろうと思っていました。イエスはこの期待に応えませんでしたが、それ以上に素晴らしいことをしてくださいました。イエスは、すでに四日間死んでいたラザロをよみがえらせたのです。

ラザロが生き帰ったのは、彼らを愛していた人々にとって大きな喜びでしたが、それは、死の問題の解決にはなりませんでした。なぜなら、ラザロは、いつか必ず再び死ななければならなかったからです。イエスは、ラザロをよみがえらせることによって、死の問題を解決しようとしたのではなく、死に関する神の望みや神の力を現そうとしたのです。

ラザロの死のゆえに悲しんでいる人々の姿を見たイエスは、「心に憤りを覚え、そして興奮」されました。それによって、死に対する神ご自身の怒りを現してくださいました。人間の罪の結果である死は、神のご計画の一部でないだけではなく、ご自分との愛の交わりの内に永遠に生きるために人間を創造してくださった神の望みに逆らうものです。ですから、神が人間の死を悲しむことや、人間の死に対して怒りを抱くのは不思議ではないでしょう。ラザロをよみがえらせることによってイエスは、神が死を求めないだけではなく、死を滅ぼす力を持っておられることを現し、死を必ず滅ぼしてくださるという約束を与えてくださいました。

実は、自分の命をささげるほどすべての人々を愛してくださったイエスは、ご自分の死によって私たちの死を滅ぼしてくださいましたので、それを求めるすべての人に永遠の命を与えることができるのです。

愛している人の死に対する悲しみや怒りが、私たちを絶望の淵に追いやることなく、「わたしを信じる人は、たとえ死んでも生きる」というイエス・キリストの約束がもたらす希望に満たされ、そして、この希望に力付けられて、イエスと同じように、抱いている悲しみと怒りを愛に生きる力、永遠の命の国を広める力に変えることができますよう祈りましょう。

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