王であるキリスト・年間第34主日C年 (ルカ23,35-43)

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」ルカ23,39-41

聖書が教える通り、人間の苦しみの最終的な原因というのは、罪です。罪を犯すことによって人間は、神と人、人と人、自然と人の調和を破壊したため、この世に死とこの死の先取りである苦しみが入り込みました。この世に生まれる私たちは、何も悪いことをしなくても、この世の苦しみにあずかるし、悪を行うことによって、自分自身の苦しみと他の人、他の生き物の苦しみを増してしまいます。努力すれば、自分自身の苦しみや他の人、他の生き物の苦しみを少し和らげることや、少し減らすことができても、それ以上のことは何をしても、元の調和を回復することも、苦しみを取り消すこともできません。やがて、罪の最終的な結果である死を迎えることになります。

私たちと違って、神の御ひとり子には選択肢がありました。人間にならないこと、苦しみに満ちた世界に生まれないことを選ぶことができましたが、神の御ひとり子は人間になって、この世に生まれ、私たちの苦しい現状にあずかることを選びました。今日読まれる福音が描いている場面が、このことを良く表しています。

イエス・キリストは自ら進んで、苦しんでいる私たちと共にいてくださり、私たちの苦しみにあずかっています。しかし、それだけではなく、イエスはご自分に心を開く人に、自分の罪や自分の限界を素直に認めた上で助けを求める人に、楽園(パラダイス)を約束します。このパラダイスというのは、ただ一時的な苦しみからの解放ではなく、元の調和よりも素晴らしい状態、つまり愛による神と一体になることなのです。

「天と地の一切の権能を授かっている」(マタ28,18)キリストの約束を頼りにして、どんな苦しい状況にあっても、絶望に陥ることなく、希望をもって、イエスとの繋がりを保つことができますように祈りたいと思います。

 

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