「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」ルカ17,15-16
感謝の念は、人間が他の人から何らかの形の助けを受けた際、例えば、何らかの奉仕をしてもらったとか、何らかの良いことを言ってもらったとか、必要としていた物をもらった際に浮かぶ感情なのです。しかし、この感情が起こるかどうかは、また、その感情の程度は、私たちがこの助けをどのように受け止めるかということに依るのです。
相手からいただいたものの実際の価値や、そのものに対する私たちの客観的な評価よりも、助けてくださった相手の動機や努力についての私たちの考えの方が、感謝の念が起こるかどうかに関して決定的なものです。たとえ、相手から頂いたものや助けは、大きな価値のあるものであると考えても、この人がこのようにしたのは、自分の義務だったからとか、他に選択がなかったからとか、それとも、自分のために何らかの利益を求めたからとかと考えたならば、感謝の念が浮かばないでしょう。けれども、頂いたものや助けの価値がそれほど大きくなくても、相手が全く自由に、何らかの隠した目的のためではなく、完全に無償で、無条件で私たちを助けてくださったという確信が強ければ強いほど、感謝の気持ちは大きくなるものです。私たちを助けることは、助けてくださった人にとって簡単なことではなく、相手により大きな努力や犠牲を求めたものであった、つまり、相手が私たちを助けるために、より大きな代価を支払わなければならなかったということが分かれば、感謝の気持ちがさらに強くなるのです。
考えてみれば、神は、いつも私たちのために最善の働きをされるし、最高の価値のある賜物を与えてくださいます。それをなさるのは、そうする義務があるからではなく、全く自由に、また、完全に無条件で、ただ私たちを愛しておられるがゆえに、私たちの善、私たちの幸福を求めておられるからです。私たちに対する神の愛には、どれほど大きな苦しみが伴っているか、つまり、神が私たちを助けるのに、どれほど大きな代価を支払っておられるかということが分かるためには、十字架に付けられた御子、イエス・キリストの姿を見るだけで十分なのです。
私たちは、神から与えられている助けの真の価値とその性質を見出し、神の愛の偉大さを意識することによって、大きな感謝と喜びに満たされて、神のもとに近づき、神との交わりを深めることができますように祈りましょう。