年間第24主日C年 (ルカ15,1-32)

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」ルカ15,1-2

イエス・キリストは、「放蕩息子のたとえ」を通して、次のことを教えておられます。罪とは、神からいただいた命、能力と他の恵みを、神の意向と神ご自身を無視して自分の考え方や欲望に従って用いることです。そのような罪の結果は、人間の堕落と不幸です。回心とは、自分の罪の結果を認めたうえで、神のもとに戻ることです。罪のゆるしとは、神との交わりに受け入れられることによって、神と和解することです。

「見失われた一匹の羊のたとえ」と「無くされた一枚の銀貨のたとえ」を通してイエスが教えてくださったのは、神が罪びとの回心を待っておられるだけではなく、人間を回心とご自分との和解に導くために、御自ら働いてくださるということなのです。実は、御子の受肉、つまり、神の御ひとり子が人間になって、私たちの間で人間として生き、活動され、死に、復活されたことは、神の救いの働きの頂点なのです。

人間になられた御子において神は、罪を犯すことによってご自分から離れて、永遠の滅びに向かっていた人間のところに来られて、人間が神との交わりに戻るのを可能にしてくださったのです。このような働きは、想像もつかないほど大きな恵みですが、羊や銀貨と違って、人間には自由意志がありますので、人間が神との交わりに戻るために、この神の働きだけでは十分ではありません。必要なのは、人間の心の中で、神との交わりに戻りたいという望み、つまり神への愛を起こすことなのです。

人間の心の中で神への愛を起こすためにこそ、イエス・キリストは、神のいつくしみ深い愛について教えてくださったし、罪に生きていた人々と共に食卓を囲んだり、人間の病気を癒したり、悪霊を追い出したりして、神の愛を現してくださったわけです。言うまでもなく、神の愛の最も完全な啓示は、それと同時に人間を神のもとへ最も力強く引き寄せるのは、イエス・キリストの十字架上の死と復活なのです。

ますます多くの人々がイエス・キリストの生涯とイエスの教えを知り、イエスの言葉と行いにおいて、神の愛の素晴らしさを見出すことができますように。そして、父である神の素晴らしさと偉大さに憧れて、神のもとに近づき、神と和解し、神との愛の交わりに生きることによって、永遠の喜びに向かって歩みながら、神の愛を他の人に現すことができますように祈りましょう。

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