「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」ルカ12,49
イエス・キリストが地上に投ずる火とは、愛の火なのです。イエスは、自分自身が、父である神とすべての人々に対する愛の火で燃えたように、一人ひとりの人にも燃えるようになることを求めておられるのです。この望みを実現し、すべての人々の心の中で愛の火を起こすために、ご自分の言葉と行いによって神ご自身の愛を現してくださったのです。十字架上の死は、神の愛の一番完全な表現となりましたが、イエスは、大きな知恵を以って神の愛を宣言したり、大きな力を以って人々を助けたりしたときに、多くの人がイエスに従っていましたが、イエスが逮捕されたときには、一番親しい弟子たちですら自分たちの命を守るためにイエスから離れました。そして、イエスに従って来た群衆自身が、イエスの死刑を求めるようになったのです。
弟子たちがイエスから離れ、群衆がイエスに対して敵意を持つようになったのは、自分たちの利益を求めただけで、彼らの心の中では愛が燃えていなかったからでしょう。おそらく、イエスにとっては肉体的な苦しみよりも、ご自分を通して神の愛を体験した人々のこのような心の状態の方が、大きな苦しみをもたらしたのではないかと思います。
幸いに、弟子たちの裏切りも、群衆の敵意も、権力者の不正や苦しい受難と十字架上の死も、イエスの愛を滅ぼすことができませんでした。イエスは最後まで、父である神と例外なくすべての人々を愛し抜かれたからこそ、救いのわざを成し遂げてくださったのです。
この救いのわざの一番大きな実りとは、聖霊、つまり神ご自身の人格的な愛の派遣でした。使徒たちは、五旬祭の日に聖霊を受けてから、イエスの望み通りに、愛の火で燃えるようになって、命をかけてキリストを証しすることによって、全世界に愛の火を投ずるようになったのです。
現在の人も心を開けば、イエス・キリストが遣わしてくださった聖霊を受けることによって、愛の火で燃えるようになれます。確かに、この愛の火は、人の心を温め、人生を照らすから、大きな喜びと平和をもたらしますが、同時に、この人の心の中にある罪や悪い癖、不健全な執着などが愛の火で燃え尽くされますし、場合によって、この愛に忠実に生きるために他の苦しみをも受ける必要があるかもしれません。ですから、愛の火を受け入れるために、愛を求めることだけではなく、イエスに対する信頼が必要です。要するに、私たちは、愛の火に燃えつくされるのではなく、清められるという確信、また、結果的にキリストの姿に造り替えられ、完成させられるという確信も必要なのです。