「シモンは、『先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」ルカ5,5
シモンがイエスに言われて漁に出かけたのは、魚がとれると思ったというよりも、イエスに対する尊敬を示すためだったと思います。しかし、魚がとれるはずのないその時に、意外にも沢山の魚がかかり、どんな時よリも沢山とれたのです。
それはシモンにとって大きなショックだったでしょう。突然、大きな贈り物、しかも自分が望んでいても得られないような、全然期待していなかった賜物を与えられました。シモンはイエスにこの望みを表したわけではないし、頼んだわけでもありません。イエス自らが、シモンの望みを見定めて、それをかなえてくださったのです。
シモンの目は、この賜物に留まったのではなく、この賜物の大きさを通して、それを与えてくださった方の愛の偉大さを見出したのです。その時、恐ろしくなりました。なぜなら、シモンは、自分が罪深くて弱い者で、この愛に全く相応しくない人間であることを意識していたし、この偉大な愛に応えることができないと思っていたからです。
イエスは彼に安心するように言って、ご自分がおん父から与えられた使命にシモンも参加するように招きました。シモンは喜んでこの招きを受け入れました。なぜかというと、この招きを受け入れるのは、自分が体験したこの偉大な愛を受け入れること、この愛に応えることになると分かったからです。
私たち一人ひとりを愛してくださり、私たちの幸福を求めておられる神は、私たちにも多くの恵み、多くの賜物を与えてくださいます。それは私たちがこれらの恵みや賜物によって幸せになるからではなく、私たちがいつかシモンと同じように、それを通して神の愛を見出し、シモンと同じようにこの愛を受け入れることを求めておられるからです。最終的に、神の愛だけが私たちの心を完全に満たし、愛である神ご自身だけが私たちを完全に幸福にすることができるのです。