年間第4主日C年 (ルカ4,21-30)

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」ルカ4,28-29

イエスが神の恵み、自由や解放について一般的に話した時に、ナザレの人たちは、その言葉を喜んで聞き、イエスをほめましたが、イエスが彼らの具体的な問題に触れた瞬間、彼らの気持ちが変わって、イエスを殺してしまおうとしたほどにまで怒りました。このような、イエスの言葉に対するナザレの住民の反応は、非常に多くの人の大きな問題を示しているのではないかと思います。
イエスはおっしゃいました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハ8,34)、と。イエス・キリストが言われたとおりです。罪を犯す人は、麻薬中毒者やアルコールの依存者と同じように、罪である行動から、この行動が実際にもたらすことのできないことを期待しています。そして、罪に騙されているということ、つまり自分が期待した通りに生かされているのではなく、逆に害をもたらされているということが分かっても、分かっていないふりをしたり、「いつでもこの道を離れることができるのだが、今はその必要がない」と自分に言い聞かせたりして、この間違った道を歩み続けます。そのうちに、何が正しいか、何が正しくないか、すなわち、何が自分を生かすか、何が自分を滅ぼすかということが分からなくなり、そのような生き方しかないと確信を持つようになって、滅びに向かっているこの道から離れることができずに、自分と周りにいる人にまで害を与え続けるのです。
この人は、「問題がない」とか、「何とかなる」とか、「心配しなくてもいい」というような話に喜んで耳を傾けますが、「あなたの生き方は間違っている」とか、「あなたの生き方をそのまま続けると滅びる」とか、「癒すために、苦い薬を飲んで、新しい生き方を身に付けなければならない」などのような話を聞くのは嫌いです。けれども、この話を聞いて、辛くても自分の現実を認めた上で、完全に癒すことのできる医者の指示に忠実に従うほかに、自由になる希望、また、心の中で求めている目的に向かって歩むようになる希望が、あるのでしょうか。

コメントを残す