年間第3主日C年 (ルカ1,4-4.14-21)

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカ4,18-19

福音記者聖ルカが、自分の福音書をテオフィロという人のために書き記すと伝えています。テオフィロという名は「神に愛されている者」、また「神を愛している人」を意味します。父である神はすべての人を愛していますので、この福音書は、誰か一人の人のために書かれたのではなく、すべての人のために書かれたということになります。同じことを聖書全体についても言うことができます。すなわち、聖書は父である神がいろいろな人を通じて、ご自分の愛する子らのために、送ってくださった手紙であるということなのです。

誰かが愛する人に手紙を送るとき、まず自分の愛を表したいのではないかと思います。同じように、父である神は聖書の言葉によって、私たち一人ひとりに対するご自分の愛を表しているのです。

また、親が自分の子どもに手紙を書くならば、その中でいろいろな注意をしたり、アドバイスを与えたりするし、子どもが困っているならば、その子を励ましたり、力付けたりするような言葉も書くでしょう。同じように、聖書の言葉によって、父である神は私たちを教え、導き、慰め、励ましてくださるのです。

そういう意味で聖書はどんな本よりも重要な書物ですが、その言葉が父である神が求めておられるような実を結ぶためには、神に対する信頼と開かれた心が、それを読む人には必要です。なぜなら、多くの場合、神の教えは、私たちが慣れている考え方に逆らっているし、私たちの考え方の変更と同時に、生き方の変更をも要求しているからです。私たちは、聖書を読んで理解したことを実行することによってだけ、その言葉をますます深く理解することができるし、神の愛をますます強く実感し、自分が歩むべき道、また、父である神が私たちに与えてくださる使命を知ることができます。さらに、暗闇や困難の時にも聖書を読み続けると、神の言葉は必ず私たちを励まし力付けてくださるので、ますます多くの人々がどんなときにも神の言葉を読み、それに従って生きることができますように祈りましょう。

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