年間第30主日B年 (マコ10,46-52)

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。』」マコ10,48

私たちがイエス・キリストを信じるというのは、盲人のバルティマイのように「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、イエスを信頼して、イエスに私たちの暗闇を照らしていただくように、つまり歩むべき道を教えていただくように、願うということなのです。そして、バルティマイのように、今も私たちはいろいろな形で、例えばキリストの教えに逆らう消費主義や快楽主義の価値観や、それに基づく生き方を押しつけられることによって、「黙らせよう」とされています。つまりイエスに近づかないように、イエスが示してくださった道を歩まないようにされているのではないかと思います。

一生懸命に働いている消費主義や快楽主義の宣教師たちは、自分たちが何をしているか分からなくても、イエスに照らされている私たちは、彼らに騙されないように、イエスが示してくださった道を眺めるだけではなく、実際にこの道を歩むことによって、この道は本当に真の命に繋がっているということを、ますます強く自覚する必要があります。

以上の意味で、イエスを信じるというのは大きな恵みであって、幸せに生きるための大きなチャンスであると同時に、大きな責任を負うことでもあるのです。この恵みを無駄にせず、このチャンスを生かすように、やはり日常生活においてイエスの道を歩む必要があります。そのとき、自分たちが豊かな命に生きるようになるだけではなく、まだ暗闇に留まっているため、いろいろな偽預言者に騙されて死に向かって歩む人たちのために光となることによって、私たちは彼らに対する責任をも果たします。それによって、その人たちにも命に向かう道を見出すチャンスが与えられるわけです。

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