年間第25主日B年 (マコ9,30-37)

「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」ヤコ4,3

文化や宗教を問わず、正しいことさえすれば、いろいろな苦しみを避けることができるとか、自分の望みが満たされると思う人が大勢いるようです。けれども、一生懸命に正しく生きても、いろいろな問題や困難が生じるし、人生がなかなか望み通りに行かないことの方が多いのではないでしょうか。さらに、多くの場合に、不正を行う人たちは何の心配もなく、人生を精一杯楽しんでいるのを見て、混乱して絶望に陥る人がいるかも知れません。また、正義や他人の気持ちなど気にせずに、自分のことのみ考えた方が賢い生き方だというような結論を出して、不正な人々と同じように、自分の欲望に従って生きるようになる人もいると思います。

神の望みに全く忠実に生きたイエスは、生まれてからいろいろな困難に遭ったし、誤解、迫害、暴力や裏切りなどのような苦しみも体験しました。最後に不正な裁判を受け、犯罪人扱いされて、十字架上で不名誉な死を迎えたのです。このイエスは神に見捨てられたのでしょうか。それとも、イエスが頼りにしていた神は無力な方であったのでしょうか。決してそうではありません。

イエスが神の望みに従って生きたのは、苦しみを避けて、気楽に生きるためでもなければ、また、自分の名誉のためでもありませんでした。それは、すべての人々の救いのため、要するに私たちの最高の善のためでした。そして、それほど苦しんでも、失望したわけではありません。キリストが求めた通りに、全能の神はその苦しみと死を含めて、キリストの人生全体を私たちの救いにしてくださったのです。

私たちは、たとえ正しく生きても、苦しみを避けることができないことを覚悟しながら、キリストのように神の導きに従って生きるならば、神が必ずこの苦しみを含めた私たちの人生を、私たちの善のためにだけではなく、私たちが愛している人々を始め他の多くの人々の善のためにも、用いてくださると確信を持つことができます。

この希望がますます強められますように祈りましょう。

 

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