年間第3主日C年 (ルカ1,4-4.14-21)

 「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」ルカ4,18-19

福音記者聖ルカが、自分の福音書をテオフィロという人のために書き記すと伝えています。テオフィロという名は「神に愛されている者」、また「神を愛している人」を意味します。父である神はすべての人を愛していますので、この福音書は、誰か一人の人のために書かれたのではなく、すべての人のために書かれたということになります。同じことを聖書全体についても言うことができます。すなわち、聖書は父である神がいろいろな人を通じて、ご自分の愛する子らのために、送ってくださった手紙であるということなのです。

誰かが愛する人に手紙を送るとき、 “年間第3主日C年 (ルカ1,4-4.14-21)” の続きを読む

Please follow and like us:

年間第2主日C年  (ヨハ2,1-11)

「母(マリア)は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」ヨハ2,5

愛の契約を結ぶことによってイスラエルは神の民となって、神はイスラエルの神となりました。そのときから、イスラエルと神の関係は、花嫁と花婿の関係に譬えられて、婚礼は、神とイスラエルが結ばれた契約の象徴となったのです。

残念ながら、イスラエルは神と結んだ契約に忠実ではありませんでした。神の愛を裏切ったイスラエルについて預言者ホセアは、 “年間第2主日C年  (ヨハ2,1-11)” の続きを読む

Please follow and like us:

主の公現C年        (マタ2,1-12)

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」マタ2,1-2

 福音書には、ベツレヘムで生まれたイエスを拝みに来た羊飼いたちと三人の博士について書いてあります。羊飼いたちと学者たちとの間にはいろいろな違いが沢山あるでしょうが、少なくとも一つの共通点があると思います。それは何かというと、謙遜なのです。

おそらく羊飼いたちは、自分の仕事しか知らないほど素朴な人でしたから、 “主の公現C年        (マタ2,1-12)” の続きを読む

Please follow and like us:

聖家族C年 (ルカ2,41-52)

「イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」ルカ2,48-49

イエスがその生みの母であったマリアに向かって語った言葉、例えば、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マコ3,33-35)という言葉を読むと、イエスは孝行息子ではなかったとか、血の繋がりを大事にされなかったというような印象を受ける人がいるようです。

しかし、もしそれが事実であったならば、 “聖家族C年 (ルカ2,41-52)” の続きを読む

Please follow and like us:

待降節第4主日C年 (ルカ1,39-45)

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1,45

待降節がまだ終わっていないのに、もうすでにいろいろなところでクリスマスの飾り付けがされていて、クリスマスの雰囲気を味わうことができます。おそらくクリスマスの飾り付けさえすれば、場合によって、クリスマスプレゼントを買い、クリスマス会やクリスマスのミサを予定に入れさえしたら、クリスマスの準備ができたと思う人がいるかもしれません。けれども、クリスマスの準備は本当にこれだけで十分なのでしょうか。主を迎えるために相応しい準備とは、どういうことであるかということが分かるためには、聖母マリアを見つめる必要があると思います。

マリアは天使が伝えた神の言葉を受け入れて、 “待降節第4主日C年 (ルカ1,39-45)” の続きを読む

Please follow and like us:

待降節第3主日C年 (ルカ3,10-18)

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ3,15

  民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

  人間は、それをはっきり意識していなくても、誰かに意図的に接しようとしているとき、必ずこの人に関して何か期待を持っているものなのです。非常に多くの場合、 “待降節第3主日C年 (ルカ3,10-18)” の続きを読む

Please follow and like us:

待降節第2主日C年 (ルカ3,1-6)

「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」ルカ3,3

「悔い改め」という日本語に翻訳されている元々のギリシア語の「メタノイア」は、自分が目指す目的や、今までの自分の行いについての考え方を、変えるということを意味する言葉です。どうしてそのような変化が、救い主を迎えるために必要なのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、罪人、すなわち創造主である神が示す目的ではなく、それと違う目的を目指す人に向かって、 “待降節第2主日C年 (ルカ3,1-6)” の続きを読む

Please follow and like us: