復活節第5主日C年 (ヨハ13,31-33a.34-35)

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハ13,34

殆どの人は、自分の人生において何か足りないとか、自分の心が何かに飢え渇いていると感じても、それが具体的にどんなものであるのかが分からないようです。そのために、いろいろな物を追求しますが、どんなものを手に入れても、なかなか満足しないのです。人間は愛によって “復活節第5主日C年 (ヨハ13,31-33a.34-35)” の続きを読む

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復活節第4主日C年 (ヨハ10,27-30)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ヨハ10,27

イエスが私たちを父のもとに導いてくださいますが、私たちを導こうとして、私たちに呼び掛けるのはイエスだけではなく、他にも多くの人がいます。ですから、私たちは実際にイエスに従うために、まずイエスの声を聞き分ける必要があるのです。いろいろな雑音で満たされている現在の世界に生きて、イエスの声を聞き分けるためには、やはり、神の言葉である聖書を読むことによって、イエスの声に耳を慣らす必要があると思います。

けれども、イエスの声を聞き分けることが大事であっても、 “復活節第4主日C年 (ヨハ10,27-30)” の続きを読む

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復活節第3主日 

「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」ヨハ 21,18

 多くの人が相手のとがをゆるすということは、相手の弱さや相手が行った悪に目をつぶって、見えない振りをしたり、それを忘れたりすることや、仕方がないからと思って悪いことを我慢することや、相手の行為が悪かったにもかかわらず、それを正しいものや良いものとして認め、その人を無罪にすることであると考えているようです。その考えが正しければ、ゆるすことは結果的に、相手にそのまま生きる許可を与えることになり、相手の成長を止めることになるでしょう。

復活されたキリストは、ご自分を裏切ったペトロに現れ、 “復活節第3主日 ” の続きを読む

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受難の主日C年 (ルカ19,28-40; ルカ23,1-49)

「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」ルカ23,33-24

イスラエルの長老たちや祭司長、また、律法学者たちは、自分たちが慣れ親しんでいた生き方を守るために、イエス・キリストを犠牲にすることにしました。ローマの総督であったピラトも、自分を守るために、自分の判断に逆らって、イエスに死刑の判決を下したのです。この人々は、特別に悪い人であったというよりも、程度が違っても、非常に多くの人々の生き方、つまり、自己中心的で、他の人に害を与えても、自分の利益のみ求めている人々の生き方を表しているのです。

イエス・キリストは、それと全く異なる生き方をされることによって、 “受難の主日C年 (ルカ19,28-40; ルカ23,1-49)” の続きを読む

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四旬節第5主日C年 (ヨハ8,1-11)

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」フィリ3,8-9

イエスと出会う前にパウロは、律法に逆らって罪を犯す人が必ず罰せられると考えていました。そして、この罰を恐れて、律法を守るように一生懸命に努力していたわけです。けれども、そのような動機は十分ではありませんでした。時に、律法に逆らう欲望の方が、罰に対する恐れよりも強かったので、この欲望に強いられて、自分の意志に逆らって、罪を犯すことがあったようです。律法は、パウロの罪を現わすことができても、彼をこの罪から守ることができなかったのです。

イエス・キリストと出会うことによって、 “四旬節第5主日C年 (ヨハ8,1-11)” の続きを読む

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四旬節第4主日C年 (ルカ15,1-3.11-32)

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ15,31

  ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。

考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が、私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、 “四旬節第4主日C年 (ルカ15,1-3.11-32)” の続きを読む

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四旬節第3主日C (ルカ13,1-9)

 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ13,3

正しく生きる人であっても、正しくない生き方をしている人であっても、おそらく、世の終わりまで他人の悪い行いやいろいろな事故によって、様々な害を受けることがあるでしょう。つまり、私たちは、いくら気をつけても、どんなことをしても、そのような苦しみを完全に避けることができないということです。

けれども、そのような苦しみを避けることができなくても、 “四旬節第3主日C (ルカ13,1-9)” の続きを読む

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